一 塩谷家の起源と家のはじまり

塩谷朝業は、下野国塩谷郡を本拠とした武士団の一族に生まれ、鎌倉時代初期に活躍した人物です。その出自は宇都宮氏を祖とし、さらに遡れば藤原氏の流れをくむ名門に連なると伝えられています。

塩谷氏の起源は、堀江氏に始まるとされています。堀江氏の祖と伝えられる人物は、平安時代に活躍した武士・八幡太郎源義家に仕えた武士の一族でした。義家の命により奥州征討に従軍した武士団の中に、この一族が含まれていたと伝えられています。

当時、奥州地方では長年にわたり戦乱が続いており、朝廷は源氏の武将を派遣して鎮圧を図っていました。八幡太郎義家はその中心となって戦い、長年続いた戦乱を終結させましたが、戦いに従った武士たちには十分な恩賞が与えられませんでした。

そこで義家は、自らの財を分け与えて家臣たちを労い、その忠義に報いたといわれています。このような義家の人望によって多くの武士が源氏に従うようになり、後の武家政権成立の基盤が築かれていきました。

義家の子孫の一人である頼純は、摂津国堀江庄に館を構え、堀江氏を称しました。
しかしその後の争いの中で一族は下野国へ移され、塩谷地方を治めるようになったと伝えられています。これが塩谷氏のはじまりとされています。

当時の塩谷庄は、現在の栃木県矢板市、塩谷町、喜連川町、塩原町などを含む広大な地域であり、東国において重要な土地の一つでした。このような家系のもとに生まれたのが、後に歌人としても知られる塩谷朝業です。

二 誕生と都での幼少期

塩谷朝業は、承安四年(1174年)、京都において生まれました。幼名は竹千代といい、宇都宮竹千代とも呼ばれていました。父は宇都宮業綱、祖父は宇都宮朝綱です。

宇都宮氏は下野国の有力な武士であり、宇都宮二荒山神社の神職を務めるとともに、朝廷に仕える名門の一族でした。祖父朝綱は平氏政権のもとで朝廷に仕え、京都に館を構えていました。

当時の京都は平清盛を中心とする平氏が政権を握り、朝廷の要職や荘園を独占して大きな力を持っていた時代でした。朝業はこの京都の館で、兄頼綱とともに幼少期を過ごしました。

母は公家の出身であり、祖母もまた教養の高い女性でした。母方の一族には新院蔵人長を務めた人物がおり、和歌や漢学に通じた文化的な家系であったと伝えられています。

そのため朝業は幼いころから学問や和歌に親しみ、都の文化の中で育ちました。母や祖母は和歌を好み、日常の中で歌を詠むことも多かったため、兄弟も自然と和歌を学ぶようになりました。このような環境が、後に朝業が歌人として知られるようになる基礎となりました。

三 平氏政権と都の乱れ

しかし、朝業が幼い頃の都は決して安定した時代ではありませんでした。

平氏は朝廷の要職や荘園を独占し、権力をほしいままにしていました。そのため古くからの貴族や武士たちの間では不満が高まり、地方の武士団も平氏に反発するようになりました。

後白河法皇の皇子である以仁王は、平氏打倒を掲げて各地の源氏に挙兵を命じました。これにより、源頼政が京都で、源頼朝が伊豆で、木曽義仲が信濃で兵を挙げ、全国で戦いが始まりました。

これが後に源平合戦と呼ばれる大きな争いです。

宇都宮氏もまた源氏にゆかりのある家であり、祖父朝綱は源氏に従って戦いたいと考えていました。しかし当時は平氏が朝廷を支配していたため、勝手に都を離れることは許されませんでした。

ようやく元暦元年(1184年)、朝綱は平氏側の武将の助けにより京都を脱出し、源頼朝のもとへ向かいました。頼朝はこれを大いに喜び、朝綱の功績を認めて宇都宮二荒山神社の職を子孫に伝えることを許しました。

宇都宮氏はその後、源氏方として各地の戦いに参加し、鎌倉幕府成立に大きく貢献しました。

四 公田横領事件と宇都宮氏の災難

しかしその後、宇都宮氏に大きな事件が起こります。

建久五年(1194年)、下野国司 藤原基房が朝廷に対し、宇都宮朝綱が公田百町を横領したと訴え出ました。

朝廷はこれを重い罪とし、朝綱を土佐国へ流罪としました。さらに頼綱は豊後国へ、朝業は周防国へ流されることとなりました。これを公田横領事件と呼びます。

当時はまだ幕府の権限が弱く、裁判は朝廷が行っていたため、このような処分となったのです。しかし宇都宮氏は幕府にとって重要な御家人であり、頼朝の乳母が宇都宮氏の出身であったことから、頼朝は朝廷にとりなしを行いました。

その結果、まもなく罪は許され、一族は領国へ戻ることができました。しかし朝綱はその後、家督を頼綱に譲り、益子の地蔵院に隠居したと伝えられています。

五 塩谷氏への養子と「朝業」の名

その後、朝業は塩谷氏の養子となりました。

塩谷氏はもとは堀江氏と呼ばれ、源義家の家臣の流れをくむ武士の一族でした。下野国塩谷庄を治める有力な地頭であり、宇都宮氏とも深い関係を持っていました。

朝業は養父塩谷朝義の「朝」と、実父業綱の「業」を合わせて、塩谷朝業と名乗るようになったと伝えられています。

この改名は、家を継ぐ者としての決意を示すものであり、朝業は塩谷庄を治める武士として生きることになりました。